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過去日記ログ


ぶたまんの独り言(⌒◇⌒)

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[ 時間の贈り物 ]
 人間にとって時間とは大切なもので、熟成、忘却、成長など
すべての場面でかけがえのない財産である。たとえば、中学の
ときなら付き合おうともしなかった相手に高校時代にふと出会
い、その人の良さを見出すとか、昔はあの人感じ悪いなあと思
っていた人が実はいい人だったとか思うのは別段相手がむちゃ
くちゃ変化したわけではなくて、自分の中のこころのあり方が
変わっていったせいだと思う。このことが端的にわかるのがジ
ェネレーションギャップというもので今のお父さんお母さんは
自分たちにもそういう時期があったにもかかわらず子供に対す
る理解は異星人に接するかのようである場合が多い。このこと
は別にお父さんお母さんが子供を理解する努力を怠っているの
ではなくて、人間は発達段階に合わせた思考しかできないとい
うすごく単純な事実に基づくものだと思う。

 わからない同士が真摯な人間関係を作りたいと思ったときに
は互いの「すり合わせ」が必要になってくる。ところが親子関係
の場合は子供側が「親が価値観をすり寄せてくるのは当たり前」
という甘えがどこかに存在するから子供が本当の意味で親との
すりあわせをできるようになるのは独立してからということに
なる。昔からよく言う「子供を持ってはじめて親の気持ちがわ
かった」というやつである。

 いっぽう、恋愛においてはそんな悠長なことは言っていられ
ない。だから、その場面その場面で自分に合う人を選択するた
めに数々の出会いと別れを繰り返す。もし、恋人たちにとって
家族同士に与えられるほどの時間的信頼感と猶予があればかほ
ども恋愛は時間に押し迫られず、苦しいものではないきがする。
恋愛で相手に対して真剣に接していればたとえば互いに感情の
齟齬を持って別れた場合でも、時間的熟成があれば、「ああっ、
あのときあの人が言っていたのはこういうことだったんだ」と
思い当たることもあると思う。その当時の恋愛現場では「自分
が正しい」と信じ切って相手の正しさよりも自分の原則を優先し
ていたものがその場面が真剣であったならあったほどあとで相
手の価値や生きかたが自分の中にしみこんでくる。そのときに
再認識する相手というものと自分というものの往還が実はかけが
えのない財産であると気づくなら、人間は愛情のみならず、人
と人との築きうる関係には、「真剣でなくてはならぬこと」と
「時間が育てる」ということが重要であることがわかる。

 この二つのことを認識した人の恋愛は不毛には終わらない。
たとえどういう将来が待っていても「時間のくれた贈り物」は
一度心に刻まれたなら消えることはないからである。
2000/12/19(火曜日) 晴れ


[ 道理と常識(わがままの道程) ]
 道理というのは物の持っている自然にそぐう形である。常識と
道理は似ているが違う。常識はみんなが共通して持っていると思
われる「こうでなくてはならない」という意識である。

 煙草を吸っている恋人がいたとき、吸わないパートナーが
禁煙して欲しいと言いたい時に、健康に悪いし、お金がかかるから
からやめてくれというのは常識で相手を説得するすべであり、わ
たしが気分悪いからやめてくれというのは道理での物言いである。
「みんながこう思っているから止めてくれ」が常識であり、「私が
こう感じるから止めてくれ(こう感じるのが自然だから止めてく
れ)」というのが道理である。

 常識には反論できるが道理には反論しにくい。人は常識
と道理を普段から区別意識なしに使っているが、実は人間関係が
安定していると道理による相手への要求が多くなり、不安だと常
識を理由にする要求が多くなる。なぜかというと道理はその要
求が否定された場合、道理を発した本人への否定になるので不安
定な人間関係ではいいにくい。よく、恋人にだけわがままを言う
人がいる。「わがまま」というのは理にかなっていないものも
多いが、自然な感情の流露であることも多く、つまり道理も多い
のである。「わがまま」は自己完結したその人にとっての道理な
のでそれを発することのできる対象は自分が安心できる人間にか
ぎられる。誰にでも「わがまま」を出す人というのは自分のして
いることが「わがまま」だと認識していない場合が多く、「私は
当たり前のこと言っているだけなのにどうしてみんなはわがまま
だというの」ということになる。

 一方、容易に人に心をゆだねることをよしとしない人間は、自
らのパートナーにも常識で物を話す。たとえ自分本来の欲求から
出た声であっても「クリスマスは一緒にいるものよ」というふうに
表現してしまう。常識という垣根で人に接する人は相手から常識
をつきつけられたとき、その常識の内容を斟酌できる人はまずい
ない。自分は常識家でありながら、あいてに常識をつきつけられ
るとすごく居たたまれない。自己表現が婉曲な人というのは相手
が同じ反応を示すと、疎外された気持ちになる。

 「明日暇?」と聞かれたときに「どっちでもいいよ」的婉曲法
で応えられると「相手にいて欲しい」という直截な表現の使えな
い「常識家」は自ら深く傷つく。つまり、こういう人は自分は常
識の垣根の中にいて相手には感情の道理を求めるのである。ある
意味で保身が強く、素直な人からするとわかりづらい性格である。
こういう人は一見大人、中身は子供が多い。スタンスの広さに心
の広さがついていかないので付き合えば付き合うほどより子供っ
ぽく見えるのである。

 一見、わがままに見えるひとでも相手の道理を傷つけない配慮
ができる人がいるとその人本人のわがままさとは別に人格に安心
を持つことができる。こういう人は意識してやっているのではな
くて、自分の道理を尊重して欲しいから相手のそれも尊重すると
いうシンプルな価値観を持っており、こういう人は人間関係の中
でもスター性というものを持ちうる。こういう人は死ぬまで子供
なのだが、生まれたときから大人なのである。

 子供の心を持って大人になりたいと思う。それは自分は、
常識ではなく道理でものを見つめ夢を追うことを希求する心を
捨てず、相手の道理を斟酌できる人になりたいと思うことに他
ならない。そして道理を同じくする人が一緒にいて安心できる
最良の関係になるということは言うまでもない。たとえわがま
まの形でぶつけられても道理は納得できるし、歩み寄ることが
できるからである。人は「自分の道理」が通らない人間とはパ
ートナーシップを持とうとはしないものなのである。
2000/12/01(金曜日) 晴れ

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[ 管理者:にっしい 著作:じゃわ 画像:牛飼い ]