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過去日記ログ


ぶたまんの独り言(⌒◇⌒)

2000/11 <<

[ 逃げること ]
 恋愛くらいしか他人と対立しない人がいる。要するに、実生活
では他人と対立するのが好きではないタイプの人もこと恋愛とな
るとどうしても自我を出さないわけには行かないので、「対立慣
れ」していない人も人格のすり合わせの必要上、ある程度の自分
をみせなければならないということがままある。こういう「対立
慣れ」していなくて且つ恋愛好きの人はいったん揉め事があった
りするとふたつの傾向を取ることが多い。ひとつは、突き詰める
タイプでもうひとつは逃げるタイプである。

 引き際を知っていて突き詰める人は対人関係がうまくいくし、
ある意味、その結果壊れても納得がいく。引き際の下手な人の追
求は途中で「追求のための追及」になって騒動になる。いずれも
自分で立ち直ることができる。問題は、逃げる人である。逃げる
というのは悪いことではない。自分を傷つけない最良の方法であ
る場合も多い。ただ、逃げ癖のついた人はまるでハンバーガーの
包み紙を捨てるように人間関係に淡白になり、共生実感が希薄に
なってくる。どこかに自分に適応する人がいるはずだと思い、安
易にいやなものからは遠ざかる。こういうタイプの人は価値観が
自己完結しているので他人に指摘されてもまず、直そうとするこ
とはない。面倒という気持ちと次を期待する気持ち、相手と自分
の精神的負担の相殺などの要素をその人なりに判断して得た結論
である場合が多いからだ。こういう人に対して立ち向かうことを
強要する人が特に異性にいた場合には非常に人間関係は困難にな
る。ことにその異性が好意を抱いていた場合、かなりの確率で「
本当に私のことに親身になってくれて怒ってくれるのはあなただ
けだわ。ようやく私を本当に心配してくれる人にめぐり合ったわ」
なんていうドラマ仕立てにはならない。

 男性も女性も人に者を諭すときは対象となる異性に好意的な場
合において、たいがい幸せな結末を夢見るがそれはひととなりを
きちんと判断すべきであろうと思われる。たとえ、一般の価値観
と自分の道徳感とか価値観において正しくとも、対象となる相手
にとって正しくなければ説得力はない。恋愛に必要なものは公共
の価値の正しさではなくて、ふたりの間柄における求心力である
ということは論をまたない。

2000/10/26(木曜日) 晴れ


[ 今日久しぶりに驚いた。(爆笑) ]
 母が今日、僕に言いにくそうに言った言葉に驚いた。近所のお嬢
さんのお母さんが僕に娘さんを嫁にもらってくれないかと頼んでい
たらしい。金銭的なサポートもすべてするからと言うことだったら
しいが、母はそのこと自体に自尊心を傷つけられたらしく、僕に言
う前に断った。つまり、事後に僕が耳にしたのであるが、母は独断
で断ったことを気に病んだらしく、思いつめた挙句に断ったことを
僕に告げた。(爆笑)僕は結婚を「一生の大事」とは思っていないので
そういうのに気を張ることはまずないから、そんなこと気にしなく
てもいいのにと思っていた。

 僕は、好きも嫌いもないので断ったことにはなんの感慨もない。
その娘さんが幼いころにはよく遊んでいた記憶があるが、記憶によ
ると僕より10くらい年下の適齢期のお嬢さんで、器量も悪くない。
だから、むしろなぜ僕に話を?という思いのほうが強かった。おそ
らくであるが、適齢期というのは結婚に対しての切迫感を親のほう
がもつのかもしれない。それで、昔からよく知っていて一見やさし
そうに見られる僕が好ましく思えたのだろう。実際に僕が娘もしく
は姪の結婚相手にといわれたのは都合三度目で、今回は付き合って
いないのでなんともいえないが、他の二回は親娘諸手を挙げて好い
てくださったが縁がなかった。親御さんは娘の性格を熟知している
から、娘の幸せを願って自分の結婚の経験などから僕のどこらかに
結婚の適正を見つけるのかもしれない。ただ、僕はおきらくな性格
なので「期待される人間像」はちと重い。相手が気を使わなくて自然
体でいられるという意味では僕は結婚相手としては悪くはない気も
するが、翻って相手を互いに理解しあうという立場からすると僕は、
ちと結婚の適正から遠い。つまり、僕の結婚観は「理解」が前提に
なっていないのである。だから、付き合いやすく、だから分かりに
くい。そこまで見抜いて付き合ってくれた女性はたった一人いたが、
残念なことに僕が足を悪くしてしまってなんとなく彼女にかける苦
労を考えて疎遠にしてしまった。足が悪くならなければ、もしくは
性格のすりあわせが完全にできてから足が悪くなっていたらおそら
く僕は彼女と一緒になっていたと思う。

 人間の縁というのは、突然偶然の風の中に出会いがあったり、気
がついてみると取り返しのつかない大切なものを失っていたりする。
人生は物悲しいが、その物悲しさというのをまったく味わえない日
常よりはずっとましだと思う。
2000/10/25(水曜日) 晴れ


[ 拘束と被拘束 ]
 人間関係が特別な形をとると問題になるのが「拘束と被拘束」の
問題である。相手への従属律と言い換えてもいい。たとえば互いの
生活、習慣、時間から趣味、箸の上げ下ろしまで拘束しあう関係が
あったとして、それを好ましいと思う人間関係はごく限られている。
嗜好と性格が完全に一致した関係である。逆に何事も束縛しない関
係があったとして、その場合なぜ、「恋人」とか「夫婦」とかいう「
形」にするのかという疑問が付きまとう。両極端というのは前者は、
閉塞感を覚えてしまうという意味で、後者は関係不全という意味で
の欠陥を持つ。

 人間というのは身勝手なもので適度な束縛と適度な被束縛とを必
要とする。この適度はおのおのの「性格」「性質」「環境」によっ
て可変的なので、たとえば付き合い始めたときには適度だった関係
が時間がたつと不適当になったり、逆に不適だったものが互いのす
り合わせによって適当になったりする。ここで注意しなくてはなら
ないのは「力ずく」で摺り寄せを行うことである。自分に無理を強
いて相手に合わせる、もしくは相手に無理をさせて自分に合わせさ
せるということになるとよほどの関係をプラスにしていくパワーが
ないと破綻をきたす。

 そこでどうすればいいかというと自分の行き方に「のりしろ」と
いうか「余白」を持たせることである。その余白を常に大切なパー
トナーのために用意する訓練を怠らなければいざというときに無理
をせずともいい。将来のために無理をして金銭的「余白」を手にし
ようとするひとはままいるが、同時に精神的余白を培う努力がない
と結局は無駄に金銭的余白を使いきる。

 ただ人にとって不幸なのはたがいに自分に合った余白を持ってい
るパートナーに出会う機会があまりにも少ないということである。
こればかりは、量をこなしても無理でむしろ少ない出会いのほうが
いい場合もある。富士には月見草はよく似合うが月見草には必ずし
も富士だけが似合うというわけではない。

2000/10/24(火曜日) 晴れ


[ 人は未来のために生きる ]
 人は何のために生きるかというと幸せになるために生きる。より
究極的には「生活するため」に生きる。人に「人間は生活するため
に生きる」というとほとんどの人が消化不良の表情をする。そんな
ことあたのまえじゃん、それ以上の応えがあって普通だろうという
感覚がそこにはある。なぜ、「生活するために生きる」というのが
人の生きる目的になり得ないかというと「未来」とか「希望」とかい
う視座がないからだ。

 恋愛や結婚においても同じことが言える。「未来予想図」を描く
ことのできない幸せというものはけっこう不安に満ちている。それ
は物理的条件のみならず、性格的な条件に顕著に表れる。「貧乏」
は未来への糧となりえるが、「性格上の見切り」は未来にプラスα
が望みにくいため、結果として心の枯渇を招く。

 結婚を前提とした関係の構築というものは、相手の未来について
の希望をもつことに他ならない。人によってはそれは出世かもしれ
ない。子沢山な家庭かもしれない。自分だけを好きになってくれる
ことかもしれない。現在とそれにつながる未来へについて相手への
「希望」をどれだけ持つことができるかというのが二人で家庭を築
くことの前提条件となる。

 人によってはそういう希望をもてない人に「よりたくさんの愛情」
を感じる人がいる。これは幸せになることはまれなので俗に言う「
不幸癖」というものなのであるが、より本質的な問題は、不幸でい
る自分に幸せを感じることである。虹の中にいる人がその幸せに気
づかないように、泥の中で泳ぐ人は清流の心地よさに満足できない
のである。


2000/10/20(金曜日) 晴れ


[ 人間にとっての容姿 ]
 人にとって容姿とは大切なものだと思うときがある。僕は容姿が
優れないので(はっきり不細工と書くのはためらわれる。(爆笑))
逆にあまり気にしないが、たとえば学生のころに容姿の優れた人
とそうでない人とでは出会いの数がかなり違うということは誰でも
認知できる事柄だと思う。それで容姿を磨く努力をしたりするのは
すごく当たり前のように行われる。世の中に「硬派」という言葉が
あるが煎じ詰めればこのような努力に価値をもたない人の集合体と
いってもよいと思う。つまり文(飾り)より質(性格)を重んじる
わけである。

 人間にとって文が質より勝ると「軽く見え」質が文に勝ると「野
卑に見え」る。人間にとっての他者から見た優れた容姿とは文と質
が拮抗している人である。もっと言い換えると自分自身というもの
に対する理解をどこまで他者視点から見られるかということになる。

 文が優れない人はある意味で本質的な不幸を背負っているが案外
克服は難しくないと思う。問題は文にコストのかかる人である。特
に文に優れた人はその効果を意識無意識を問わず、認知しているか
ら文にコストをかける。化粧品や衣服、エステ等に金銭と努力を惜
しまない。これはむしろ「よりきれいに」というよりはしていない
不安からの脱却を意図し、一度やり始めると継続しない不安から逃
げることはできない。女性に限らず、男性でも一度散髪屋から美容
室にカット場所を変えた人は文に不安を感じるのでお気に入りの美
容室にいく場合も多い。服装なんかでもゆにくろで済ませていたも
のが、妙にブランド志向になったりする。

 より深刻な精神的課題は「文」にコストをかけた人は「これだけ
コストをかけたのだからそれに見合うリターンを」と思うことであ
る。いきおい異性に対する目が厳しくなったり、同性でも「文」に
無頓着な人に蔑視とは行かないまでも軽く見る意識が働いたりする。
「文」にコストのかかる人はその内面に「文」に対するアンチテー
ゼと「質」が優ることに対する蔑視をふたつながらに持つことにな
るので相手を見る気持ちの余裕に乏しくなる。

 じゃあ、どうすればいいのかというと「質」にもコストをかけれ
ばいい。自分の内面を磨くのを外面を磨くのと同様に怠らない。恋
愛においてはいかに相手の視点に立ち、尊重できるかということで
ある。ようするに「文」を磨く努力の価値に「質」をあわせる。そ
うすればおのずから「文」だけに引き寄せられる異性は減ってくる。

2000/10/17(火曜日) 晴れ


[ 電話という利器 ]
 以前にある人から「過去の男が電話をかけてくる理由」について
聞かれた。僕は、めったなことで付き合ったことのある人で分かれ
た人に電話をしない。もちろん、友達としていつまでも末永く付き
合いの続く場合もあるが電話だけということはしない。なぜかとい
うと、生来のめんどくさがり屋という側面があるのだが、より重要
なことは、電話をかけないやさしさを大切にしたいからだ。こんな
こというと変人に思われるかもしれないが、相互に納得づくで別れ
た場合を除いて、たいがいどちらかが別れを切り出す。そうすると
たいがい別れを告げられたほうには少なからず未練が残る。

 別れたほうから、後で電話をしたりするのは相手の未練を喚起し
かねないし、自分が別れを告げられたほうであるならばみっともな
いことはしたくない。だから、自分から別れても相手に別れを告げ
られても電話をあとですることはない。ある意味での僕の中のルー
ルに近いものがそこにはある。もちろん、相手から電話がかかって
くるのを拒否することはないが、その場合もきちんと距離をおいた
話し方を心がける。再度付き合う場合も想定できるが、それはそれ
としてきちんとけじめをつける。けじめとか道徳感とか倫理観なん
ていうものは本来恋愛とはかけ離れたもので、むしろ恋愛のじゃま
になると思うときもあるが、心にある線引きをしないと、人間とい
うのは「次の一歩」に踏み出せない。

 ときおり、なぜ人間に規範意識が存在するのか考えることがある。
いきる漆喰になっているものは自分を縛る「〜してはいけない」と
いう不文律であることを深く認識している。ところが、「〜しては
いけない」がなくなると実は、関係の垣根がなくなってしまって誰
とも懇意に付き合える代わりに誰とも深い分かち合いができなくな
る。人にとって区別化(差別化)とは自らを深めて理解するために必
要なものでそのために、「付き合っている」という言質や紙切れに
過ぎない「結婚」という誓約書を大切にするのだと思う。つまり、
自分が幸せになるためには幸せを満喫するための深化が必要であり
そこには差別化が不可欠だということである。

 一人でいるときには「他者と違う自分の幸せ」をつかもうとして、
二人でいるときには「ふたりだけの共生感」を求める。その仮定こ
そ幸せと呼べるものだと思う。虹の中にいる人は虹の美しさに気が
つかないというのはまことに至当な意見だと思う。
2000/10/15(日曜日) 晴れ


[ 関係の落し物 ]
 社会的に生きるということは、群れを作ることである。そこで気
持ちよく生きるということはその群れが自分にどれだけ心地よく機
能しているかということであろう。社会の最小単位の恋愛でも相手
がいかに自分に心地いいかということが関係を長く続かせるポイン
トになる。ところが自分が心地いいだけでは社会は成立しない。相
手が存在するからである。自分の精神的利益に追従していてはかえ
って自分が心地よい場所を得られないということに人は気がつく。
相手の心地よさが自分も共有できてこそ自分も幸せになれるのであ
る。

 そこで、人はさまざまな仕方で自分が相手にして上げられるこ
とを積み上げる。ある人は物品や言葉を上げるという仕方で。ある
人は自分が我慢するとか相手の希望を先取りするという形で、より
心地いい幸せを求めて相手の幸せを考えるのである。ここに相性の
問題が存在する。してあげられることと相手がしてほしいことの間
に格差があるとき、ことに恋愛関係は成立しない。互いに好きでも
相手に対する斟酌のあり方が相手の価値観にそぐわないときには、
関係は枯れていく。枯れていっても相手が好きと言う感情と価値観
との間にはラグが存在するので価値観の差が恋愛の決定的破綻の原
因には感じない場合が多いのだが、実はたいがいの破局の原因は相
手にしてあげたいことの互いの受け取り方の齟齬である。
 
 このことを意識するのはさほど難しいことではなくて、何か相手
にいやだなと思う部分があったときに今まで我慢できていたことが
鼻についたりすることがあることでわかる。それではどういう心持
ちで相手と付き合えばいいということであるが、自分が相手にどれ
だけのものを与えてもらえるかという基準で初期の付き合いを選択
するのではなくて、自分がどれだけのことをしてあげられるかで選
択するのがいい。ただ、人間は杓子定規で人を好きになったり、関
係を築いたりしないしできないので、こういう事実を知っていて
も結局は自分の感情を大切にして価値観は後回しになる。

2000/10/14(土曜日) 晴れ


[ 結婚という制度 ]
 結婚とはなにかと吉行淳之介が昔聞かれたとき、「結婚とは生涯
一人の人としかSEXをしてはいけないという恐ろしい契約」とい
われていた。そんな即物的なとは思ってみたものの他のすっきりし
た基準を探しても見つからない。たとえば精神的なものは定義には
不向きであるし、財産権は夫婦別々に管理されている。子供の養育
や税制措置は夫婦の形態によって著しく異なるし、社会的認知がそ
のおもたる役目かと考えればその社会的認知の中核になるのは「当
人同士の性行為(一緒に棲むこと)に対する社会的是認」というこ
とになる。すっきりした基準を探そうとすればするほど性行為とい
う問題が結婚には欠かせない。なんて書くと当たり前ではないかと
いう人も多いと思うのだが、しかし性的に不能であっても結婚して
いる人はいるし、またそういう行為が嫌いでも結婚している人は多
い。ようするに制度としての「結婚」とは「性の問題」抜きには考
えられないのであるが、実質の結婚は「性の問題」以外の部分が大
きい。

 ここで問題になるのは「性」は生き物としての相性、性格や趣味
性癖、嗜好などは「人間」としての相性のものである。「生き物」
としての方が「人間」としてより上位概念にあるために人によって
は「寝てみないことには相性はわからない」ということになるし、
また上位にある相性概念なので「ある程度合っていればそれ以上の
ことはやはり人間として付き合える部分の相性」ということになる
人もいる。

 悲劇的には、結婚後にどちらか片方だけ相性が合わなくなること
である。両方とも合わなければすっぱり人間的に切り捨てられる部
分もあるが、どちらか片方だけ相性があっているとその補償を他に
もとめる部分ができてきてある意味当然である。

 ようはバランスのよい相性である。ある側面だけ傑出している相
性のよさは刺激的でそれに傾倒しがちになるが、何十年も制度上の
パートナーとして生きていこうとすると危うい。危うくならないた
めの気遣いとして相手の一番自分とあわない部分を認知してそれに
自分を合わすか、相手を合わせるようにする努力である。

2000/10/12(木曜日) 晴れ


[ 恋と結婚 ]
 いろいろな人から恋と結婚について聞く。適齢期の女性がネット
上に多いせいだろうか。「自分の幸せ」について考えたり、生涯の
伴侶についていつも考えている女性が多い。その中で僕があたりま
えの感覚で思っていることとその女性たちの価値観とで明確な差の
あることがいくつかあって自分を見直す上で非常にためになる。

 一番、差のあることは僕は愛情と結婚とは別物だと考えていると
いう事実である。もちろん愛情があるから結婚にいたるという過程
は当たり前だとは思うが、結婚を意識した女性に対しては「恋愛感
情を抜きにしてもこの人と一生やって行けるかどうか」というのが
すごく大きな比重を占める。たとえ恋愛感情を強く持っていても、
精神的な意味での「未来予想図」の描けない人との恋愛は「恋愛の
ための恋愛」になってしまう。それは男女の性差とは関係なく、女
性から見た男性についても同様のことが言えると思う。

 女性というのは一般的に(といっていいのかどうか知らないが)
適齢期であればあるほど自分の「女性としての性」を意識してその
ため「性的部分だけで付き合いたくない」という思いが強くなるの
で、男性に異性としてだけでなくて、ユニセックスな感情を求める
傾向の強い人が、ことに恋愛真剣主義者の女性には強いように思われ
る。ところがそういう志向性を見せる人ほど実際には異性としての
男性をより強く意識する人が多いようである。その結果、恋愛の自
家撞着を起こす。つまり、あれもほしい、これもほしい、もっと私
にふさわしいひとがいるはずだとか、この人のこういう面は好きだ
けどこういう面が少しいやだからもっといい人を探そうとか思うよ
うになる。

 僕の感覚ではたとえすばらしくぴったりした人が存在したとして
もそれは「時間的に不変」なものではないという事実をシビアに認
識しているので本質的な意味で「ぴったり」という人は存在しない
と思っている。性格的相性がぴったりという人は存在すると思える
が、結婚というのは性格的相性だけで決まるものではないので多重
要素をいちいち考慮して行くとたとえそういう人がいるとしても確
率的にまれではないかと思える。結婚願望が強くてかつ理想の高い
女性はこの確率の少数派に自分が必ずいつかは適応すると思ってい
るという事実である。たくさんの人にこの話をすると僕のいうこと
に納得した後「でも自分は違うから」という感覚を持ち続けるので
ある。

2000/10/11(水曜日) 晴れ

My Diary Version 1.21
[ 管理者:にっしい 著作:じゃわ 画像:牛飼い ]