(2000/11)
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[ 勘違いしていること ]
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男女が好きあう条件をあげるとき、容姿、学歴、収入、性の 適応、性格など具体的にあげる人は多い。ただ、不思議と別れる 理由は自分が最初に選ぶ基準であったはずのものでない場合が 多い。これらは意識の中では重要な条件ではあるが、実際には 「自分の幸せ」のためには自分が思っているより大きな価値を 占めていないことが多い。なぜこういうことが起こりうるかと いうと先にあげた条件は自分にその条件が充足していない限り、 「相手に求めるものが自分の持っているものより高い」のが普 通であるからである。
お金をたくさん持っている人はお金を条件に挙げない。美人 ほどあまり美男子を選んでいることも少ない。自分が満ち足り ているものは条件に挙げても自分の幸せ感に結びつかない。人 がパートナーに求めるものは自分の欠損の補完である。たとえ ば、金銭容姿に問題なくすごしてきて性格的にひたすら自分と 合う人を探す人もいれば、お金に苦労していたために貧乏な結 婚は嫌だという人もいる。お金の不自由さえしなければ少々の 妥協はするという人は意外と女性には多い。そういう自らの意 識を恥じる人もいるが僕の感覚ではこの意識は当然だと思う。
ところが、相手に欠損部分を求めるということにおいて勘違 いしていることがある。相手が自分の欠損を埋めうるというこ とは相手の事物の認識が自分とはまったく違う部分が存在する ということである。たとえば、お金を持っている人が清貧な人 と付き合ったとき、しっかりした経済感覚は疎ましく感じるし、 逆からみれば金銭に対する放漫な感覚にはついていけない。つ まり惹かれる部分がマイナスに作用する場合も多いのである。 よく僕は恋愛について相談されてその人の心境の変化に付き合 う事が多いのだが、好きな部分と後で辟易した部分が「表裏一 体」であるばあいがすこぶる多い。つまり、僕から見ると、「 その長所にその短所はつき物だろう」という感覚がある。
生真面目な人を好きになってその人の独占欲にうんざりした り、金離れのいい人を好きになってその人の粘りのなさにがっ かりしたり、性格が淡白な人を好きになってその人のデリカシ ーのなさに怒ったりすることはよくあることである。もちろん、 どこかに、「真面目で私だけを愛してくれるけど私は束縛せず、 好きにさせてくれて男らしくあっさりしているけどここ一番で は粘り強くて女性的なこまやかさも持ち合わせている人」はい るかもしれないが、僕自身は何十年生きてきていまだにそうい う人にお目にかかったことがない。
だから、難しいかもしれないがパートナーを選ぶときは自分 がこういう部分に惹かれるというのではなくて「こういう部分 は自分に耐えられない」という方向で探したほうが楽である。 友達同士がさしたる燃え上がる恋愛感情もなく結婚して比較的 うまくいく場合が多いのはこの減点法の基準を「友達である」 という事実がある程度クリアしているからである。
恋愛経験のある女性は無意識のうちにこれを知っている場合 が多く、そのため「友達でありたいが恋愛を当初から射程に入 れる」という変則スタンスを取る。つまり、性的なものとか男 女関係にのみありがちなものを捨象して相手を見たいという感 覚があるのだが、その前提が恋愛とパートナー探しなので自家 撞着するのである。
2000/11/24(金曜日)
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[ 恋愛は人生に必須ではないということ ]
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恋愛は人が生きる糧になり、それだけで生活の風景をがらっと 変えてしまうものである。でも、これが空気のように必要なもの かどうかというとそうでもない。なくても人は生きていけるし、 それなりの幸せを感じることができる。では、結婚はというと事 情は異なる。外部要因的必然性のある場合がある。
たとえば、生活的なもの、金銭的事情、世間体、家族関係、子 供ができた等々感情の後押しをするようなものがある。これは、 恋愛は心のつながりのみを関係の基本とするが(相手の金銭的状況 や容姿だけをつながりとする場合もあるがそれはこの場合の恋愛 の事例に入れない)結婚は「制度的担保」であるという事情がある ためである。
ここで、問題になるのは恋愛と結婚というのが「別物だ」という 意識があるのかないのかである。まるきり別物だと仮定すると、 関係はドライなものになるし、同一視する=「好きだから結婚する」 ということになると制度的担保が今度は気持ちの純粋性を阻害して 「ああ、結婚する前はこんなんじゃなかったのに」ということにな るわけである。
ではどういう心持ちでいればいいかというと相手も自分も恋愛と 結婚とに入れこまないことが肝要なのだがこれはそういかない場合が 多い。というのは人間関係には必ず温度差が存在するからである。 そういったときに大切なのは緩衝材になるべき人間関係である。恋 愛、結婚が「ふたりでのみ」成り立っていると考え、ふたりだけで 世界を構築する場合、その関係の維持には精神的な力をたくさん使 わないとだめなのでどちらかのテンションの変化でもろいものにな りうる。
人は一人で生きても生きられるが、一人で生きたくないと思った ときその大切に思う数をふたりに限定するのは互いにつらい。その 単位が家族になり、社会にまで敷衍していくほうが関係としては安 定したものになりうると思う。そうして自分を過信せず、外界との 関係を大切にするときに二人の関係のすりあわせがよりいい形で進行 するのではないかと思う。もちろんすり合わせが進行して互いの存 在が空気のようになってからどういう生き方を選択するかはその先 の問題である。
2000/11/07(火曜日)
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[ 浮気はなぜいけないか ]
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特定の約束や関係を本人同士や近しい人々に認知させた上で、 余人と性交渉を持つことを「浮気」という。性交渉のあるなし以 外にも精神的な浮気というものがこの「浮気」のカテゴリーに入 りうるが、形としての破局は性交渉による場合が圧倒的である。
浮気がなぜいけないかというと倫理に代表される社会的感覚 というものが人間にはあり、社会的感覚では無条件に浮気は罪 悪である。その社会的感覚が付き合っている相互の価値観の公 約数になるため、暗黙のうちに浮気はいけないというルールに なる。
だが、どちらか一方の社会的感覚が一般からも相手からもずれ ているということがままある。石田純一さんの「不倫は文化」 発言なんかも「石田式社会的感覚」からは妥当性が高いが、一 般的社会通念や配偶者の社会通念からははずれる。よく「家庭 崩壊」とか「結婚崩壊」などということが言われ、配偶者が互いに 別の相手と浮気していて相手は互いに知らないふりというような ことがある。この場合は実は二人の「社会的通念」はある意味に おいて一致していて俗に言う「仮面夫婦」というのは決定的な破 局にならず、ずるずるといく。
つまり、人はパートナー相互の価値の認め合い(たとえ負の価 値観であっても)によってのみ、成立しており、倫理や社会通念 はどちらかが互いの価値観から離れたときに持ち出されるいい訳 にしかすぎない。二人が納得していればなんでもありなのである。 (民主主義社会においては、「公共の福祉に反しない限り」とい う条件がつく)なにがいいたいかというと、浮気は社会通念には ずれて倫理にもとるからいけないのではなくて、「相手がされて いやだし、自分が立場を置き換えてされてもいやだ」というごく あたりまえの「共生感の否定」があるからだめなのである。
ではなぜ、大切な人がいて浮気をしてしまうかというと「共生 感の否定」と浮気は別物だと感じている場合があり、こういう人 は価値観を同じくする人としか付き合えない。もうひとつは「ば れたら困る(共生感を否定してしまう)」という意識を持ちながら 「他の共生感」が欲しいという気持ちがあるからである。
ところがひとつの共生感を犠牲にして手に入れた共生感はその 人の中で不安定なのでいつもさびしく次の共生感を求めるように なり、自分のありかを探す旅を続けることになる。共生感に根を 張ろうとするとその人の心にくびきが必要であることに気づいた とき、ふと後ろを振り返ってみると失ったものの多さに愕然とす るのである。まるで砂漠を一人歩いていて振り返ると足跡だけが ずっと残っているかのように。
2000/11/02(木曜日)
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