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ぶたまんの独り言(⌒◇⌒)

(2002/03)


[ この世に均台はあるがそれはここにはない ]
 求めるものがそれぞれ違う。それが人のおもしろみであり、
また悲しさである。僕は若い頃、完全な優しさを持ちたいと
願ったことがある。ヘルマン・ヘッセの「メルヘン」という
短編集に影響を受けたのだが、やがて自分にはそういうもの
はもてないと思うようになる。完全否定は不遜で傲慢のそし
りを免れないかもしれないが、完全性というものを心的な部
分で持ちうることは限りなく難しいと自覚したのである。

 そこで僕が自身に次に課したことは、「改める」ことであ
る。人を傷つけてしまう。自分に欺瞞をする。そういう部分
は人として生きる限り避け得ない。だから、後にそれを改め、
人に謝罪できる人間になろうとした。そう思って生きている
と何回か困難にぶつかる。「人を傷つけたことへの謝罪が自
己欺瞞になってしまう」時である。

 人は自分の中の「正しさ」から発した言葉でも容易に人を
傷つけうるのである。この当たり前の事実はずいぶん長い間
僕の命題である。そしてついこの間気づいたことであるが、
優しさもこの対立するふたつに分けられることがある。すな
わち「自己欺瞞を行ってでも相手を中心に考えて行動する優
しさ」と「自分の芯から発する価値でしか表現しない優しさ」
とである。

 無条件に女性に優しいと思われる人は前者のタイプが多い。
「相手が女性だから」ということをすべての理由の前に置いて
優しく振る舞えるのである。「自己欺瞞」は適切でないので
「自分のエゴ以外のものに前提をおいて優しくできる人」とい
いかえたほうがいいかもしれない。
 一方、「自分の芯から発する価値でしか表現しない優しさ」
で優しさを見せる人は自分を逆の立場に置き換えて最善の方法
を探る。とうぜん謝罪が最良でない場合も出てくるから、相手
のこころを考慮するときに謝れない場合がいくつも存在するわ
けである。
 そういう方法で相手に接したときに、自己完結して相手の去
りゆくことも肯定できる精神を有していれば問題ない。人が関
係を割り切れればの話である。

 僕は諦念の中で後者の方法をとる。正しいとか正しくないと
いう問題ではなくて「心が枯れるのを防ぐ」というただ一点に
おいてである。もちろん、前者の方法が自分の価値と一致して
いれば自己矛盾がおきにくい分だけ優れている場合も多い。そ
して前者のようにして振る舞える人は男女双方とも異性からは
すかれる人が多い。

2002/03/29(金曜日) 曇り


[ 心が枯れるということ ]
 僕は昔から不思議に思っていることがある。男女のつきあいを
みて「だめだ」感じることとそう感じないことがあるのである。
そしてだめだと感じたものは例外なくだめなのだがその理由につ
いて長らく直感的なものだと思っていた。ところがふと考えてみ
ることがあって整理してみるときちんと言葉にできることに気が
ついた。それは、「当人の価値観で矛盾を内包しているつきあい
は心が枯れる」ということである。

 たとえば、相手の浮気は許せない人がいる。「私は少なくても
つきあっているときは浮気はしないし、許せない」という人だ。
こういう人は価値観は徹底しているが、こういうけじめ好きの人
に限ってそれ以外の部分はけじめがない人が多い。つまり自分の
空間では人間関係は自分の価値に自分も縛りを入れるがそれ以外
の空間では好きにふるまうという人である。
 
 このような価値を持った人にとって、いわゆる友達関係とかで
他人の彼氏(彼女)を寝取ったりする行為はたとえどのように言
葉を並べても自分が逆の立場になると許せない行為である。しか
し、自分が寝取る立場になったときに「自分がフリーであれば」
案外、平気でたとえば壊れかけたカップルの片一方などと関係を
もってしまうことがある。そのときのいいわけは「どうせ、壊れ
かけている」からとか悩んでいる方の相手に同情したとか、さま
ざまなものであるがいずれにせよ逆の同性の立場だと許せないの
である。

 そういう部分はつきあおうとする人とまったく別の世間で行わ
れている場合、自己矛盾をきたさないこともあるが、これがつき
あう異性と「共通した友人関係(世間)」で行われると自己の価
値矛盾といやでも顔をつきあわさなければならないことがでてく
る。たとえば、過去の浮気相手がフリーになったときに現在の恋
愛関係の障害になったり、いいかげんに放置していた火遊びの穴
埋めを取り急ぎしなくてはならなくなったりということが起こる。

 こういう自己矛盾は心を枯らしていく種子をお互いの関係に常
に内包している。これを解消するすべはいくつかある。ひとつは
カミングアウトしてすべてを白日の下にさらす。もう一つは、自
分は自分が思っているような価値で生きられる人間ではなかった
と自己否定して修正することである。

 こんなことをしなくても、関係は続くよという人もいる。確か
に皆無ではない。皆無ではないから自分は「そのごく少数派」の
一人だと思いこみがちである。でももし運良くその少数派になり
えても、自分にうそをつくということは他人にうそをつくより遙
かにいいようもない不安を覚えるものであるし、なにより、心が
枯れては関係の意味を見失うのである。

2002/03/15(金曜日) 曇り

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[ 管理者:にっしい 著作:じゃわ 画像:牛飼い ]