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[ この世に均台はあるがそれはここにはない ]
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求めるものがそれぞれ違う。それが人のおもしろみであり、 また悲しさである。僕は若い頃、完全な優しさを持ちたいと 願ったことがある。ヘルマン・ヘッセの「メルヘン」という 短編集に影響を受けたのだが、やがて自分にはそういうもの はもてないと思うようになる。完全否定は不遜で傲慢のそし りを免れないかもしれないが、完全性というものを心的な部 分で持ちうることは限りなく難しいと自覚したのである。
そこで僕が自身に次に課したことは、「改める」ことであ る。人を傷つけてしまう。自分に欺瞞をする。そういう部分 は人として生きる限り避け得ない。だから、後にそれを改め、 人に謝罪できる人間になろうとした。そう思って生きている と何回か困難にぶつかる。「人を傷つけたことへの謝罪が自 己欺瞞になってしまう」時である。
人は自分の中の「正しさ」から発した言葉でも容易に人を 傷つけうるのである。この当たり前の事実はずいぶん長い間 僕の命題である。そしてついこの間気づいたことであるが、 優しさもこの対立するふたつに分けられることがある。すな わち「自己欺瞞を行ってでも相手を中心に考えて行動する優 しさ」と「自分の芯から発する価値でしか表現しない優しさ」 とである。
無条件に女性に優しいと思われる人は前者のタイプが多い。 「相手が女性だから」ということをすべての理由の前に置いて 優しく振る舞えるのである。「自己欺瞞」は適切でないので 「自分のエゴ以外のものに前提をおいて優しくできる人」とい いかえたほうがいいかもしれない。 一方、「自分の芯から発する価値でしか表現しない優しさ」 で優しさを見せる人は自分を逆の立場に置き換えて最善の方法 を探る。とうぜん謝罪が最良でない場合も出てくるから、相手 のこころを考慮するときに謝れない場合がいくつも存在するわ けである。 そういう方法で相手に接したときに、自己完結して相手の去 りゆくことも肯定できる精神を有していれば問題ない。人が関 係を割り切れればの話である。
僕は諦念の中で後者の方法をとる。正しいとか正しくないと いう問題ではなくて「心が枯れるのを防ぐ」というただ一点に おいてである。もちろん、前者の方法が自分の価値と一致して いれば自己矛盾がおきにくい分だけ優れている場合も多い。そ して前者のようにして振る舞える人は男女双方とも異性からは すかれる人が多い。
2002/03/29(金曜日)
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